北総鉄道50年史
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1944~1978第1部1979~19841984~1991第2部第3部第4部1991~20002001~20102010~2019第5部第6部第7部2019~ 現在 マーケットは陳情より強し国の政治とマーケットの関係を連想させる北総鉄道の値上げである。海老原栄印西市長、中村教彰白井町長が昨年に続いて同社の森雅史社長を訪ね運賃値下げの要望書を提出したのが五月二十日。それから二カ月余りで、同社は値上げの申請をしてしまった。要望は「沿線自治体として、今後も引き続き輸送人員や旅客運賃収入の増加に貢献できるよう最大限の努力をするので、ぜひ、ご検討いただきたい」というもの(「広報いんざい」六月十五日号)なそうだが、「経営状態をよく知ってるはずの首長が要望するからには金なり知恵なり具体的な協力方法を示してほしいな」というのが同社の偽らざる胸のうちだろう。「最大限の協力」を待っておられず、結果的に市長、町長のメンツをつぶしても会社をつぶすわけにはいかない、そんな思いが感じられる値上げ申請である。同社の一層の自助努力が求められるのは言うまでもないが、行政としてどのような「最大限の努力」ができるのか早く固めないと、背に腹は変えられない同社の値上げピッチが速まる恐れがある。(千葉ニュータウン新聞1998(平成10)年8月15日号)97いて論評するミニコミ紙もありました。当時、千葉ニュータウン各地区に配布されていた「千葉ニュータウン新聞」の編集発行人・小田隆造氏は、元日経新聞の記者で、1979(昭和54)年の千葉ニュータウンの街開きと同時にニュータウン小室地区へ入居。その翌年から20数年の長きに亘り同誌を主宰した人物です。氏は一貫して34万都市を掲げてスタートした千葉ニュータウン事業の変遷を見つめ、折々の進捗状況や行政の動きなど、入念な取材と深い洞察による追跡記事を多く掲載。停滞するニュータウンの街づくりに対しても、ニュータウン事業者の県や住都公団に向け、鋭い批評や問題解決のための提言を展開しました。また時には、厳しい論調で当社に苦言を呈す記事も掲載するなど、千葉ニュータウンのオピニオンリーダー的な役割を果たした人でした。1998(平成10)年8月発行の同誌には、北総線の運賃値上げ申請について、次のような論評記事が掲載されました。北総線の運賃変更申請は、9月4日に認可が下り、当社は9月15日に通算9度目となる運賃改定を実施しました。値上げによる収支改善効果は早速現れ、1998(平成10)年度の年度収支は24億円の赤字でしたが、前年に比べ約9億円の改善が図られました。一方で、運賃改定直後の1998(平成10)年10月には、北総線の高運賃問題解決を求め、千葉ニュータウン住民や沿線市議により「北総開発鉄道運賃値下げの会」が結成され、値下げを求める署名活動が展開されました。同会は後にこれを携え、国交省、千葉県、住都公団へ陳情を行うなど、北総線の運賃問題は、鉄道会社の経営問題から沿線地域の政治問題化の様相も孕んで行くのでした。こうした中、1999(平成11)年11月には、東武野田線・新鎌ケ谷駅が開業。これにより新鎌ヶ谷駅は、全国でも珍しい私鉄3線(北総、新京成、東武)の乗換駅となりました。駅周辺も、区画整理事業により駅前ロータリー等も整備が進み、これまでの「一面の梨畑」から大型ショッピングモールやスーパーも立地するなど面目を一新。当社も新設された駅前ロータリーに隣接する北総線の高架下に店舗を誘致し、街の賑わいづくりと増収を図りました。その後も駅利用者は着実に増加し、今や同駅は人口11万都市の鎌ケ谷市の玄関であると共に、千葉県東葛地区の交通の要衝となっています。第4部 北総沿線の発展とともに

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