会社を挙げてのPR作戦や、急行運転開始による利便性向上は一定の成果を上げ、営業段階の収支は僅かながら黒字を見たものの、最終的な年度収支は1992(平成4)年度末も約35億円の赤字となり資金繰りも悪化。この状況下では融資が不良債権化することを恐れる市中金融機関からの融資など望むべくもなく、さらには当時の政府系金融機関も、運輸省からの融資推薦状が出ているにも関わらず融資保留の姿勢を取るなど、ここに至り当社は存亡の危機に直面することになりました。北総線が経営を悪化させている事態を重く見た運輸省鉄道局は、1992(平成4)年11月には、新たな支援策を取りまとめて大株主3者(京成電鉄、千葉県、住都公団)に提示するなど、事態打開に動きました。しかしながら、北総線が千葉ニュータウンはじめ県西部地域の住民にとって重要な公共交通機関であり、資金面での支援を行わなければならない深刻な状況であることは関係者間で十分認識されてはいたものの、北総の経営危機を救うにはこれまで以上の規模での支援が必要となることから、各機関の足並みは揃いませんでした。その後も、運輸省と関係者の個別協議が進められ、1993(平成5)年3月には、従来の関係者に建設省も加えた「北総問題検討会」が組織され、北総問題に対する認識の共有化と支援の基本的方向付けを得るための検討が開始されました。検討会では、支援に係る分担や期間などを巡り調整には困難を極めましたが、大蔵省とも連携して対策を進めた運輸省鉄道局の指導の下、関係者が知恵と汗を出し合い、1994(平成6)年6月には北総再建案が大筋で合意され、調整の後、覚書が調印されました。この間、当社も、支援策の取りまとめに尽力いただく鉄道局始め関係者の求めに応じ、再建策の前提となる支援スキーム案を反映した長期収支の試算を行いました。幾重もの複雑な支援ファクターを反映した試算表や付属資料の作成には、時には丸1日近くかかることもありました。作業は企画室を中心に、経理部も入って深夜にまで及ぶこともしばしばで、当時、企画室で作業にあたったメンバーは、「関係者による検討会の成否に北総線の命運がかかっているという緊張感を持って作業にあたりました。時には1日に6パターンもの試算表を作成し、深夜遅くに相手先へファクシミリで送信。時には翌朝、各機関へ直接持ち込むといった作業の繰り返しで、試算表が出来る度、この支援スキーム案で話がまとまれば良いなと願いながら、連日、連夜、作業をしたものです。」と当時を述懐しています。こうして関係各機関の英知と協力で成立した北総再建覚書「北総第3次支援」では、①関係者による資金協力として、1995(平成7)年~1999(平成11)年の間に88億円の出資(京成57億、県15.5億、住都公団15.5億)と、187億円の融資(京成81億、県53億、住都公団53億)の実行に加え、②北総開発鉄道の旅客収入を確実に達成するための施策として、千葉県、住都公団は千葉ニュータウン入居戸数について年間1,200戸を確実に定着させることや、千葉県および関係市町村による北総沿線の土地区画整理事業の事業促進を図るほか、③関係者による「北総再建委員会」を設置し、毎年1回、再建策の具体的な進捗状況を検証することなど、多岐に亘る幅広い861993–平成5年4.会社存亡の危機と 北総第3次支援
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