北総鉄道50年史
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創業以来19年越しの悲願であった都心直通を実現した北総開発鉄道でしたが、同時に大きな課題も背負うこととなりました。2期線区間の建設に要した多額の費用の支払いです。当社2期線区間の整備・建設は、鉄建公団による民鉄線事業(P線制度)で施工されました。この制度は、鉄道施設建設を同公団が行い、完成後は、建設費用および管理費等の諸費用を加えた価格で事業者(鉄道会社)が譲渡を受けるというものです。当社への譲渡価格はおよそ1,141億円、支払い条件は、元利均等半年賦、金利5%、償還期間25年間で、償還は譲渡初年度より開始されました。毎年の償還額は、未だ償還途中の1期線分も加えると、元利合計でおよそ100億円にも上ります。こうした事態への対応として、既に当社の大株主である京成電鉄、千葉県、住都公団の関係者間では、1987(昭和62)年に北総鉄道2期線の建設促進および都心直通開業後の経営安定を目的に覚書が交わされ、当社への出資や融資、負担金を骨子とする経営支援措置が組まれていました。これが主に1991(平成3)年から1994(平成6)年度にかけて実施された「北総第2次支援」と呼ばれるもので、当社は、65億円(京成25億円、県20億円、住都公団20億円)の出資と負担金160億円(県80億円、住都公団80億円)に加え、京成電鉄から101億円にも上る融資を受けました。当社の資金繰りが苦しくなる2期線開業後の数年間をこの支援措置で乗り切れば、後は都心直通により利便性が向上した千葉ニュータウンや、2期線沿線の区画整理事業の開発が進む松戸市や市川市内で沿線人口も飛躍的に増加、北総線利用者も右肩上がりとなり、当社はこれらの費用を賄うだけの収入を得て安定経営に向かうとの目論見でありました。しかしながら、当社や支援関係者の思惑や願いをよそに、時代は大きな転機を迎えます。折しも2期線開業年度である1991(平成3)年は、日本経済に不吉な暗雲が立ちこめた年でもありました。1986(昭和61)年に始まった異常なまでの地価と株価の高騰が、日本銀行の金融引き締め策により突如終焉したのです。いわゆるバブル崩壊です。1991(平成3)年を境に土地や株価などの資産価格は急激に下がり始め、日本経済は長く先の見えない景気低迷のトンネルに入って行ったのでした。この負の影響は、北総開発鉄道にも例外なく及びました。当初34万人を想定していた千葉ニュータウンへの入居者は、住宅市況の冷え込みもあり未だ約5万人にとどまり、都心直通実現により弾みが付くと期待した2期線沿線の区画整理事業も遅々として進みません。その結果、1991(平成3)年度の一日の平均輸送人員は、都心直通開業前に想定した「経営の前提」とされる計画人員の7万人を大きく下回る4万5千人となり、華々しい全線開通年にもかかわらず、1991(平成3)年度の収支は約33億円の赤字を計上。通勤時間帯を除けば乗客はまばらで、ドア開閉時に入ってくるのは、寒々しい木枯らしのみという時間帯も少なくなく、巷間ではいつしか「空気を運ぶ北総線」とも揶揄されるようになりました。781 悲願の都心直通を実現したが乗客はまばらでホームは閑散  (平成3年 北国分駅)平成3年1991–1.悲願の都心直通。運んだのは空気だった…北総第2次支援と再度の経営危機

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