北総鉄道50年史
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してはひとまず高架式での工事が容認されたのですが、一部の地元反対派住民の反発は強く、なお火種はくすぶり続けました。4年後の1990(平成2)年8月6日には、採択時に葛飾区と交わした協定の文言「70ホンを著しく超える場合には騒音防止設備などの対策を講じる」を問題視し、葛飾区住民24人が「70ホンでは住環境が損なわれる」と工事差し止めの仮処分を東京地裁に申請する事態(この仮処分申請は後に却下)となったほか、葛飾区内の線路予定地に点在する農地の買収・移転交渉など、まさに生みの苦しみを味わいながら用地取得と建設工事は進んでいきました。こうした様々な試練も重なり、当初の予定であった1988(昭和63)年3月の全線開業は、不本意ながら1991(平成3)年3月に延期せざるを得なくなりました。社内の誰もが意気消沈する中、当社の背中を押してくれたのが、「北総地域交通対策協議会」でありました。この協議会は「乗り継ぎのない快適な足の確保」を切望する千葉ニュータウンの住民を中心に組織されたもので、「1991(昭和66)年3月開業予定に合わせてロクロクサンだけは譲るな」を合言葉に、北総1期線の各駅に「ロクロクサン」と大書した看板を掲げるなど、強力なPR作戦で後ろ盾になってくれました。協議会会長の佐藤一良氏は、昼夜を問わず作業者が汗を流す2期線工事現場を視察した際にこう言っています。「このペースなら大丈夫だ。今度は、延びるようなことはないだろう」。こうした応援と、都心への足を待ち望む住民の思いを前に、当社は「もはや二度目の延期は許されない」と、気持ちも新たに2期線工事に全社を挙げて邁進して行きました。6844建設中の東松戸駅(昭和63年)5真っ直ぐに伸びる高架橋が完成した北国分駅~秋山駅間(平成2年頃) 6 2期線建設に先立ち、京成高砂1号踏切の自動車交通量を調査する小江社員と髙山社員。このような地道なデータ採取も行われていた(昭和55年) 7工事中の大町駅(平成2年頃)

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