「総力を結集して2期線建設を」。その決意の前に立ちはだかったのが用地買収でした。用地交渉の難しさをある農家のひと言が的確に表しています。「農地というのはたいてい住居の近くにあるものです。だから、このニュータウン事業に全面的に協力するということは、農地を手離すことはもちろん、長く住み慣れた家も手離し、どこか別のところに引っ越すことなのです。先祖伝来の農地も家も全部手離せますか」と。とはいえ、用地が取得できなければ事業は一歩も進みません。このため当社は、京成電鉄の不動産部や用地交渉の経験豊富な国鉄OBなどプロの力も借りながら、地権者宅を一軒一軒訪問し、電車が都心へ繋がることの意味を訴えていきました。当時、当社若手社員の一人として、用地交渉を担当した遠藤幸一、野坂明弘の両氏はこう語ります。「上司の国鉄OBの人は地主さんに色々ポンポン言うので相手が怒り始めることがあるんです。そこでしばらくは自分一人で顔つなぎに行くと“お前また来たのか!”と。何度か通い怒りが収まった頃、再度上司と伺い、契約出来た時は達成感しかなかった。でも、ああ、終わったと思ったらまた次の地主さん。そういうことを1件1件繰り返す日々でした(遠藤)」。「契約していただいた時は、こちらの手が震えて判子を押す時は苦労しました。買う側も売る側も人間なので、いろんな人がいる。理詰めで交渉したり、感情を爆発させたり、実にダイナミックな仕事だった(野坂)」と振り返ります。交渉を複雑にしたのは、バブル景気到来により「明日になれば土地の値段はもっと上がる」と思われていたことでした。1980年代後半からの空前の投機熱で株価は上昇し、不動産市場でも地価が急騰していた最中でした。そんな中、早期着工の重要性や予算の限界などについても説明して理解を得、最後は人間対人間の関係の中で判子を貰っていったのでした。先の遠藤氏は今でも「電車で通ると、あの人元気かな、もういないかな」と地権者一人ひとりの顔が思い浮かぶと言います。今日、北総電車が走る線路の1m1mには、様々な人間ドラマがあったのです。また、この頃、建設方式を巡り葛飾区で反対運動が起きていたことも、当社にとっての難問でした。当社は踏切事故や交通渋滞解消に繋がる高架式での建設計画を進めていました。一方、騒音を心配する地元葛飾区側は、緑地保全や住環境の悪化を理由に地下鉄方式での建設を強く要望し交渉は泥沼化。環境保護団体や政党など様々な思惑が交差して区議会も揺れました。1986(昭和61)年2月には、葛飾区議会交通対策特別委員会から「(葛飾区側が主張する)葛飾区内の地下建設は可能」との結論が出るものの、8月には一転して北総側が要望する高架式が賛成多数で採択されるなど、事態は二転三転を繰り返しました。この8月の採択により北総開発鉄道と661大きな期待と今後の飛躍を思いに。2期線起工式で挨拶をする高橋全吉社長2 2期線修祓式。修祓式は栗山隧道の起点方で執り行われた3押上本社の執務風景(昭和57年)。押上本社は墨田区業平にあった第一生命ビルのワンフロアを賃借。昭和51年から平成9年まで総務部・経理部が入居していた昭和59年1984–2.用地買収難航 そして葛飾区の建設反対運動
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