北総開発鉄道2期線の着工から4か月後の1984(昭和59)年11月、当社に思わぬ知らせが届きました。運輸省が2年をかけて検討を重ねてきた「新東京国際空港アクセス関連高速鉄道」の路線に、北総開発鉄道のBルート案が採択されたのです。決定した理由としては、まず、国鉄が進めてきたAルート(成田新幹線ルートの再整備)案が公害を懸念する沿線住民の強い反対で頓挫したことでした。またCルート(国鉄成田線を分岐して空港に直結)案も国鉄が分割民営化を目前に控えていることもあり選ばれませんでした。そこで千葉ニュータウンの足を公言してきた北総開発鉄道のBルート案に白羽の矢が立ったのです。そもそも空港アクセス構想が誕生した背景には、1972(昭和47)年2月に工事実施計画が認可され国が進めていた成田新幹線構想の迷走がありました。この構想は、東京~成田空港間を最高速度260km/h、ノンストップ30分で結ぼうという大計画でした。しかし1974(昭和49)年に工事が始まった直後、当時の公害問題に対する世の中の意識の高まりもあって、工事は猛烈な反対運動に巻き込まれてしまいました。江戸川区の土地区画整理組合や地権者らは国に対し、工事実施計画の認可取り消しを求めて訴訟を提起するなど、「絶対通さない」と反対姿勢を明確にし、沿線予定地の浦安でも、当時営団地下鉄東西線の騒音が問題となっていたことから「新幹線は言語道断だ」との反対の声が上がり、ついに工事は建設途中の高架橋やトンネルを残したまま凍結されてしまいました。この事態を受けて、1977(昭和52)年11月に新幹線計画の代替として田村運輸大臣が発表したのが「成田新高速鉄道構想」、俗に言う「田村構想」でした。新幹線の代わりとなる路線を決め、空港と都心直結を実現しようと企図したのです。前述のようにA(成田新幹線ルート)・B(北総ルート)・C(在来線乗り入れルート)の3ルートが候補に挙がり、その中から北総開発鉄道のBルートが選ばれたのでした。ちなみにCルートはここから7年後の1991(平成3)年に「成田エクスプレス」として日の目を見ることとなります。当初、候補に挙がることで着工遅れを懸念していた当社でしたが、北総線ルートが脚光を浴び、千葉ニュータウンと空港が繋がるのは悪い話ではありません。空港と直結すれば、千葉ニュータウン住民の利便性が高まるのはもちろん、成田空港を利用する観光客やインバウンド需要も見込めます。当社社員たちの胸中には、北総台地から世界の空へと羽ばたく輝かしい路線のイメージが湧き上がりました。さらに、この前年には東京ディズニーランドが開園しており、開業1年で入園者1,000万人を突破するなど、千葉県全域で旅客需要が飛躍的に伸びつつある時期でもありました。こうしたバブル景気の始まりを予感させる世相の中、一刻も早い2期線開通が望まれており、当社は何としても工事を間に合わせなければと決意も新たにするのでした。641成田新高速鉄道3ルート2幻の成田新幹線のパンフレット(昭和47年)成田スカイアクセス線の千葉ニュータウン中央~成田空港間は、途中で建設が中止された成田新幹線のルートを踏襲3同パンフレット中身昭和59年1984–1.空港アクセス路線として 脚光を浴びる北総線
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