当社が2期線工事の認可を一日千秋の思いで待つ一方、着々と開業準備を進めていたのが、千葉県から権限を委譲された住宅・都市整備公団(以下、住都公団)の千葉ニュータウン線でした。この鉄道は、北総線の終端、船橋市の小室駅から印旛郡印西町の千葉ニュータウン中央駅までの4kmを繋ぐ路線で、北総線、新京成線を経て松戸駅で常磐線に接続すれば、約1時間で都心に行くことが可能になります。建設工事の停滞で、いつしか“足なし団地”とも揶揄されていた千葉ニュータウン中央地区の住民の皆さんも、開業への期待を高めていくのでした。1983(昭和58)年11月16日、初冬の深夜。西白井駅に一台のトレーラーがやって来ました。積載されていたのは赤と緑のツートーンカラーの新車両、住都公団鉄道の2000形です。愛知県豊川市の車両メーカーで製造されたもので、試運転のために運ばれてきたものでした。1日に2両しか運べないこの車両を、1本(6両編成)分揃えるための作業は3日に亘りました。実はこれらの業務を担ったのは当社でした。公団鉄道と当社は、1978(昭和53)年に基本協定を締結し、鉄道運営に関する各種業務を当社が受託する形態をとっていました。24日に無事試運転を終えた後、この2000形が千葉ニュータウン中央駅で開業の時を迎えたのは、1984(昭和59)年3月19日。春まだ浅い印西の地にスマートな駅舎がヴェールを脱ぎ、2000形が北総台地を走り始めました。なおこの間、当社は1982(昭和57)年8月にようやく待望の第2期区間工事施工認可を得て、1984(昭和59)年7月18日に栗山トンネル坑口で鍬入れ式を、新鎌ヶ谷信号所構内(現新鎌ヶ谷駅)で起工式を行いました。鍬入れ式では高橋社長が工事の安全と2期線の無事開通を願い、「エイ、エイ、エイ」の掛け声と共に鍬入れを行いました。さらに起工式は、住都公団の堀内喜朗・関東支社長、中野晟・千葉県副知事、皆川圭一郎・鎌ケ谷市長を始め約500人が出席する盛大なものとなりました。開通すれば、これまでの“迂回通勤・迂回通学”を解消でき、待望の都心直通が実現します。この時、「1988(昭和63)年3月の全線開通」が、改めて現実のものとして全社員の目標となりました。しかし用地買収はまだ20%が済んだのみであり、路線開通のためにはやるべきことが山積しているばかりか、この間も当社の財政悪化は一層進んでいました。1984(昭和59)年度末時点の累積赤字は286億円にも膨れ上がり、もはや当社は経営支援なくしては会社が立ち行かない状態になっていました。この頃、危機的状況に瀕していた当社の支援に尽力したのが、当時、運輸省鉄道局財務課長で、後に当社第9代社長に就任することとなる亀甲邦敏氏でした。亀甲氏は当時をこう述懐しています。581 千葉ニュータウン中央駅開業式典でのテープカット (昭和59年3月19日)2開業祝賀列車の出発式3開業記念ヘッドマークが誇らしげな2000形車両「ある時、鉄道、バス等の財務の監督をする課の課長をしていた私のところに、北総開発鉄道の社長をしている高橋全吉氏が運輸省出身の及川常務と共に訪ねてきた。『北総が財政上行き詰まってしまってどうしようもない』とのこと。高橋氏は、私に懐中から取住宅・都市整備公団鉄道開業と北総第1次支援1983–昭和58年5.レールは印西の地へ
元のページ ../index.html#60