とはいえ、当社の財政事情は深刻さを増すばかりでありました。1981(昭和56)年3月末の累積赤字はついに100億円を突破するなど経営が一段と悪化。このため、地域との約束である待望の2期線工事計画の申請も、1977(昭和52)年から6度に亘って延期せざるを得ない状況が続いていたのです。そんな中、2期線工事と融資問題に文字通り骨身を削って奔走していた1人が、常務の高橋良平氏です。千葉県の初代鉄道部長、千葉ニュータウン事業部長を歴任後、1977(昭和52)年より当社の経営に参画した人物で、千葉県庁在職時代は、あの開発大明神・友納元知事から米国外交の巨頭の名になぞらえて「千葉のキッシンジャー」と呼ばれた名参謀でした。実はこの頃、高橋氏は大病を患っていましたが、二度目の大手術を終えた直後さえ、「日本鉄道建設公団への償還金5億円の返済期限が迫っている」と、県、政府自民党、金融筋との折衝に病躯を押して走り回りました。そして5億円の返済問題に決着がついたと、病床で報告を受けるや涙を流して喜んだといいます。こうした社員皆の努力の末、6度に亘って延期していた2期線工事の申請も、1981(昭和56)年5月30日の締め切りギリギリで済ませることができました。これで正式に当社創業以来の悲願である都心直通目標が、7年後の1988(昭和63)年3月に定まりました。しかし、この申請からわずか半年後の11月28日、その進捗を見届けたかのように高橋常務が死去。12月7日に行われた北総開発鉄道社葬では、第3代社長・佐藤光夫氏の後を継ぎ第4代社長に就任した高橋全吉氏始め、当社社員はもとより、友納武人氏、川上紀一氏、沼田武氏の千葉県歴代3知事が一堂に会して別れを惜しみました。常務としては異例の社葬であり、氏が繋いだ千葉県と当社の絆がそこに見えるかのような光景でありました。こうしてようやく順調に進むかに思われた2期線計画でありましたが、またもここで試練が待っていました。運輸省に提出した2期線の工事施工認可の審議が先送りとなったのです。その背景にあったのが、政府が打ち出した「成田新高速鉄道構想」でした。これは、当時、政府が進めていた成田新幹線事業が住民の反対により頓挫したため、代替案として都心と成田空港を結ぶアクセス路線を検討するというものでした。この候補にAルート(成田新幹線ルートの再整備)、Bルート(北総開発鉄道の空港までの延伸)、Cルート(国鉄成田線を分岐して空港に直結)が挙がり、期せずして北総開発鉄道も「新東京国際空港アクセス関連高速鉄道審査委員会」の審議の俎上にのることとなりました。このため、空港アクセス関連の審議が優先されることになり、2期線認可の審議にブレーキがかかったのでした。一日も早く着工したい当社としては予想外のことでした。当社第2代社長の梶本氏はこの時、「私たちは、空港のための鉄道なんてこれっぽっちも言っていない。どこまでも、北総の創設目的通りニュータウンの住民の足として、認可が下りれば直ちに着工に踏み切る」と訴えました。「2期線工事は北総の命。これをやらなければ北総は死んでしまう」と、一方で梶本氏は北総線の将来の発展を思い、「北総線が(単なる通勤線を超えて)空港アクセスの機能も手にすれば飛躍的に発展できる」との考えも持っていましたが、いずれにせよ審議は棚上げのまま、じりじりと1年の月日だけが過ぎて行きました。561981–昭和56年4.累積赤字が膨らみ 2期線工事計画にも暗雲
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