「幻? 緑の34万都市」、「計画大幅遅れツケは住民に」。新聞紙上で千葉ニュータウン計画の遅れがそう指摘されたのは、1981(昭和56)年3月のことでした。1979(昭和54)年2月のイラン革命、1980(昭和55)年9月に勃発したイラン・イラク戦争の影響で原油価格が高騰。景気は減速し、県の財政も逼迫してニュータウン事業も停滞したのです。事実、1981(昭和56)年3月時点での入居者は4,900戸、17,000人に過ぎませんでした。事業停滞の一つの原因は、用地買収が難航したことで、計画面積2,912haのうち買収地は32%、つまり68%は手つかずのままでした。さらに新線予定地である印旛郡白井町復山谷地区、谷田地区で竪穴式住居や先土器時代の石片など多くの遺跡が見つかったことから、学術調査のためニュータウン造成工事がストップするなど、遅延に拍車をかけることになりました。千葉県企業庁はこうした現状を受け、この年、1983(昭和58)年の千葉ニュータウン完成予定を、10年後の1993(平成5)年まで延長する方針を固めました。一時は応募倍率442倍と空前の人気を博するなど、県住宅供給公社にとっては「ドル箱」の千葉ニュータウンでしたが、思わぬ蹉跌が生じたのです。この影響をまともに受けたのが、厳しい財政状況の中で建て直しを図っていた当社でした。鉄道利用者数が伸びないまま1979(昭和54)年度末時点で累積赤字は既に38億円に達し、社内でも「①課長以上の従業員給与の5%カット、②超過勤務手当の30%削減、③有価証券の売却」などを内容とする合理化案(削減効果約7,000万円)を作成し、身を削る努力を重ねましたが、それでも赤字は積み上がり、「値上げしても100円稼ぐのに354円かかる」程の深刻さでした。そして1981(昭和56)年3月に初の運賃改定を行い、普通運賃で16.8%の値上げ(初乗り110円から120円)を実施しました。開業から僅か2年での運賃値上げに対し、千葉ニュータウン住民からは多くの厳しいご意見をいただきました。「夢のある街と思って入居したが、バスはない。鉄道は1時間に多くて2本。そして利用者に説明のないまま値上げ。事業の遅れのツケを私達に負わせるとはどういうことか」、「2期線工事を早く完成させて都心との直結を実現させよう」。千葉ニュータウン内の白井町立南山小学校体育館で3月に行われた抗議集会では、運賃値上げへの抗議やダイヤの増便、2期線早期開通の要望など様々な意見が相次ぎました。集会に出席した当社鉄道部長始め社員は、住民の切実な思いを肌で感じました。さらに当時の新聞を見ると、千葉ニュータウン住民の嘆きが聞こえてきます。「都内からやっと松戸まで来たというのに、北総開発鉄道の待ち合わせまで40~50分もある。つい駅近くの赤ちょうちんへ入ってしまう。顔なじみの人が同じようにコップを傾けていますよ(43歳男性)」、「私の場合、北総開発鉄道を使って新京成八柱駅で武蔵野線に乗り換えるのが最短距離。でも、(二時間余もかかるため)とても利用できない。バイクだと1時間ちょっとで通えるのです(40歳男性)」。こうした住民の皆様の不便を解消してサービスを向上させるためにも、当社は一刻も早く、都心直結を実現する2期線(京成高砂~新鎌ヶ谷間)建設工事に着工しなければなりませんでした。541981–昭和56年3.進まぬニュータウン事業と 北総開発鉄道の経営危機
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