開業から1年。千葉ニュータウンの夢を乗せ、颯爽と走り出した北総線ではありましたが、肝心の千葉ニュータウン事業の進捗は遅れ、利用客数が伸び悩む日々が続いていました。計画当初1日10万人を見込んだ輸送人員は、開業年の4月で1日平均わずか3,936人。1年余を経た1980(昭和55)年6月でも1日平均8,529人、旅客収入も1日平均104万3,000円と、かろうじて100万円台を突破した程度でした。さらには、北総線の第1期線の建設に要した費用178億円の太宗を占める日本鉄道建設公団(以下、鉄建公団)への償還金が年間11億円(1日換算304万円)もあり、当社は開業早々赤字の船出となったのでした。開業を見届けて勇退した川崎・初代社長に代わって1979(昭和54)年に2代目社長に就任した梶本保邦氏は、1980(昭和55)年8月8日の運輸概況発表の場で、「(初乗り110円の)運賃の値上げだけでは追っつかない」と厳しい経営状況に危機感を抱き、出資要請などあらゆる方策に手を尽くすこととなります。こうした暗い状況の中、一筋の光ともいえる朗報が届いたのは、奇しくもその翌日のことでした。7000形車両が鉄道友の会選定の「第20回ローレル賞」を受賞したのです。ローレル賞とは、全国規模の鉄道愛好者団体である鉄道友の会が、前年に新造された全国の車両の中から性能やデザインなどが極めて優秀と認めた車両にだけ贈るもので、その選考委員会から、ユニークさと安全性を両立させた「ゲンコツ電車」の外観や、完全空調化による固定窓、外板に使用した日本初の着色フィルムなどが高く評価されたのでした。現在の新鎌ヶ谷駅付近の高架下にあった鉄道部事務所でこの一報を受けた当時の運輸課長・根本幸太郎氏は、「こんな小さな鉄道会社の電車が受賞できたなんて!」と驚き、その場に居た社員たちと喜びを分かち合いました。このニュースはたちまち各駅にいる駅員にも伝えられ、その後の取材でも、根本氏は「われわれの鉄道が改めて全国に知られることになりうれしい限り。若い街ニュータウンの人たちと一緒に喜びたい」と声を弾ませました。中でもこのニュースを感慨深く受け止めたのが「デザイン・ポリシー検討委員会」で主導的役割を果たした専務・黒岩源雄氏でした。黒岩氏は「いい電車が通っているからあそこのニュータウンに住みたいな、と思っていただけるような鉄道でないといけない」と常に語り、妥協することなくCI確立に心血を注ぎました。ゲンコツ電車の外観も、13種類のスケッチを用意し、専門家から一般の方まで意見を聞いて選抜したものでした。早くも8月10日には、当社が小室駅でローレル賞授賞式を開催すると、急な開催にもかかわらず多くの鉄道ファンが集まり、その前を「ローレル賞1980」のヘッドマークを装着した記念列車が誇らしげに北総台地を走って行きました。この栄えあるローレル賞受賞を祝し、当社では“見る角度によって図柄が変わる”ユニークな記念乗車券を発売したほか、記念のタンブラーグラスも製作してニュータウンの各家庭に配り、祝賀ムードを盛り上げました。501 ローレル賞授賞式。写真は受賞記念盾を手にする梶本社長2ローレル賞祝賀列車3ローレル賞賞状4ローレル賞記念タンブラーグラス昭和55年1980–2.社員を鼓舞した 栄えあるローレル賞
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