北総鉄道50年史
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一方、当社は地道に用地交渉を進め、1973(昭和48)年2月には、当初の目標であった北初富~小室区間の用地取得を完了させ、用地部会を解散させるなど常に県の動きの機先を制していました。この時の心境を後に梶本副社長はこう語っています。「とにかく一日も早く県よりこちらが鉄道をつけることによって、やはり民間に任せておいた方がいいということを実績で示そう。それしかないのだ」。こうして当社は、翌1974(昭和49)年12月20日、第1期線(北初富・西白井・白井・小室間)7.9kmの起工式を行い、鉄道敷設に向けた一歩を踏み出しました。1979(昭和54)年3月の千葉ニュータウンの街開きに間に合わせるべく、路線建設に際してはニュータウン内を優先し、暫定的に新京成電鉄・北初富駅で新京成線に乗り入れ、松戸駅まで直通運転することで都心方面への通勤・通学ルートを確立するというものでした。翌1975(昭和50)年4月には、鎌ケ谷市内の梨畑に囲まれた県道沿いにプレハブ事務所が建設され、そこを前線基地として建設工事が本格化し、長らく電車路線の“空白地帯”だった広大な北総台地に都心に向けた鉄道建設の槌音が響き始めました。建設工事では、噴泥現象や沈下を防げるアスコン(アスファルト・コンクリート)舗装の強化路盤にするなど、後の鉄道建設のスタンダードとなる新機軸を採用。またレールは遮音効果の高い長さ2㎞のロングレールとし、「ガタンゴトン」という振動を軽減する伸縮継ぎ目と合わせ快適な乗り心地を追求しました。また、工事と並行して用地交渉も精力的に進められ、1977(昭和52)年9月には、1期線区間全ての鉄道建設用地取得も完了しました。千葉ニュータウンの足を担うべく計画された2つの路線、北総線と北千葉線の競合関係に劇的変化が訪れたのは、北総鉄道起工式の翌年の1975(昭和50)年4月でした。千葉県知事選の結果、3期12年を終えた友納知事に代わり、川上紀一・新知事が就任。川上知事は厳しい財政事情を勘案して、千葉ニュータウン事業の縮小や内陸工業団地開発の凍結といった大胆な予算削減を行うなど、前知事の開発主義路線からの軌道修正を進めました。県営鉄道計画についても、このまま北千葉線建設を続けるのか、或いは北総開発鉄道に委ねるのか、千葉県は大きな決断を迫られていました。そんな折、北総開発鉄道第1期工事も進みつつある1976(昭和51)年8月、当社・梶本副社長と川上知事の会談が持たれ、ここで梶本副社長から「県が自ら鉄道をやるのを止め、民間にお任せください。代わりに県が北総開発鉄道に出資してくださるのが一番良い方法で、第三セクター的な鉄道にすることが、鉄道建設の将来の一つの在り方である」との提案がなされました。県営鉄道をどうすべきか模索していた県も本提案を契機に検討を進め、1977(昭和52)年、千葉県による北総開発鉄道への2億円の出資と経営参画が決定しました。その後、千葉県は、県の持つ本八幡~印旛松虫間の路線免許のうち、小室~印旛松虫間(12.5㎞)については、1978(昭和53)年4月、同年より千葉ニュータウン事業に参画した宅地開発公団に譲渡。北総開発鉄道は、千葉県の思いも背負いながら“千葉ニュータウンの足”の完成に向けて邁進していくこととなりました。421974–昭和49年4.北総開発鉄道1期線 (北初富~小室間)に建設の槌音

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