奇しくも北総開発鉄道と同じ日に地方鉄道敷設免許を交付されたのが、友納知事の推し進める千葉県営鉄道でした。免許が交付されたのは都営新宿線への接続を見据えた本八幡から、健康医療学園都市を目指していた印旛松虫間28.9kmでした。県では、免許を受けるや直ちに建設工事に向けて準備を始め、1974(昭和49)年4月には千葉県鉄道局を発足。さらに10月には鉄道局に用地課を設置し、新線開発に力を入れ精力的に用地交渉も始めました。この路線が「北千葉線」と命名されたのもこの頃です。さらにこの路線は、1978(昭和53)年3月に新空港が誕生する予定の成田や、観光・工業の発展が著しい九十九里方面へ延伸するという構想もあり、まさに開発大明神・友納知事らしい壮大なプランでした。しかし、世界情勢は千葉県の計画に予期せぬ逆風をもたらしました。1971(昭和46)年8月のドルショック、1973(昭和48)年の第一次石油危機などを契機とする経済不況です。戦後の高度経済成長を支えた1ドル360円の固定相場制の崩壊は、輸出産業に大打撃を与え、県の税収も伸び悩みました。また石油危機による狂乱物価の中、国が総需要抑制策をとって経済引き締めにかかるなどの影響で、県の構想は大きく減速し始めました。加えて、県を悩ませたのは、用地取得の困難さでした。千葉県による鉄道用地買収は1974(昭和49)年度より進められましたが、「先祖伝来の農地も家も手放せない」、「農地を失ってどうして生活していけと言うのか」といった反対の声が次々と上がり、1974(昭和49)年6月時点の北千葉線第一期線の用地取得率は、予定の約半分という状況でした。これ1県営鉄道パンフレットの表紙2県営鉄道の路線図3県営鉄道パンフレットの内容の一部に、北千葉線の図面が大手ゼネコンに秘密裏に渡ったのではないかという疑惑「北千葉線図面漏洩事件」も発生し、反対運動に拍車がかかりました。これは、地元住民に北千葉線の路線ルートが公表される前から、大手建設会社が駅予定地周辺を軒並み買収していた問題で、県は大きな批判を浴びました。順調と思われた県営鉄道計画は、様々な要因が絡み合い、一転、難航し始めたのです。4011974–昭和49年3.もう一つの千葉ニュータウン線、 県営鉄道計画
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