北総鉄道50年史
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地元の鉄道計画が公になると、にわかに活気づいたのは沿線予定地でした。梨の特産地として知られるのどかな農村地帯が、一気に土地ブームの様相を呈したのです。交通の便を見越してデパートやスーパーが出店のための下見に訪れるなど、新たな街づくりへの期待感があちこちに溢れていました。京成電鉄による新会社「北総開発鉄道株式会社」が産声を上げたのは、そんな最中のことでした。1972(昭和47)年4月28日、東京・皇居前のパレスホテルで開催された北総開発鉄道創立総会。初代社長に就任したのは、京成電鉄第5代社長で、ディズニーパークの日本誘致発案者としても知られる川崎千春氏。副社長には、運輸官僚出身で国際観光振興会の生みの親でもある京成電鉄専務・梶本保邦氏と、用地交渉に詳しい京成不動産副社長の小坂真氏が就任。鉄道事業と不動産事業を社業の両輪として北総地域の発展に貢献していこうという気概に溢れた陣容と社名でありました。そのビジネスモデルは、鉄道を敷設し、沿線開発で得た利益を鉄道建設費用の償還に充て、早期に経営を安定軌道に乗せる構想で、川崎社長はこの時、「一日も早く都心直通の列車を運行してニュータウンの足を確保したい」と決意を語りました。こうして創立総会後の5月10日に正式に発足した当社ですが、当初は京成電鉄本社企画室のスペースを間借りしたスタートとなりました。程なく用地部会が設置され、グループ会社・京成不動産の強力なバックアップのもと、鎌ケ谷市内から千葉ニュータウン地区方面を優先に、用地交渉を進めて行ったのです。地域からは「新鎌ヶ谷駅を中心に商業が発展する」と期待の声が寄せられる一方で、「鉄道が敷かれることに反対はしないが、私個人としては今後とも農業を続けたい」、「農家の犠牲と鉄道の犠牲、どっちが大きいか真剣に考えるべき」と、反対の声や慎重論も数多く上がりました。地域に受け入れられなければ、線路一本、枕木一本敷設は出来ません。そこで住民説明会や戸別訪問を行い、時に反対派の怒号が飛ぶ中でも鉄道の必要性を訴え、一軒一軒理解を得ていくという地道な交渉作業が続きました。こうした中、8月7日には「京成高砂~小室」間の敷設免許申請を行い、地方鉄道敷設免許の交付を得たのは翌1973(昭和48)年10月4日のことでした。3831972–昭和47年2.京成電鉄により 北総開発鉄道設立

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