第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年、霧の都ロンドン。この地である都市計画が始まろうとしていました。ロンドン大学のアバークロンビー教授が提唱する『大ロンドン計画』です。政治経済の中心として長らく栄華を極めたロンドンは、一方で住宅や商業開発、道路の無秩序な拡大により、人口の過密化が問題となっていました。そこで「大戦を機に都市計画を一新し、思い切った人口分散を図ろう」と、具体的には市の周りをぐるりと緑地帯にして無計画な開発を規制しつつ、その外側に職住近接の10万人規模のニュータウンを散りばめるという計画が立案されました。この計画のもと、数年のうちにハーロウ、バジルドンなどのニュータウンが次々と建設され、終戦直後の住宅不足解消と人口分散に成功したのは歴史の示す通りです。戦禍で家を失った多くの市民にとって、新天地ニュータウンは希望でありました。それから20年を経た1966(昭和41)年、高度経済成長期の日本・千葉県。この地でかつての大ロンドン計画を模範とした新たなニュータウン構想が大きく動き出そうとしていました。主導したのは、千葉県政史にその名を刻む友納武人知事。農業県だった千葉に東京湾埋立てによって京葉工業地帯を作り上げ、 “開発大明神”の異名をとっていた人物です。千葉県ではこの頃、月1万人、年間12万人単位で人口が急増しており、ロンドン同様、スプロール現象(無秩序乱開発)などの都市問題も浮上しつつありました。そこで、人口流入の受け皿にしようと国鉄総武線と常磐線に挟まれた細長く広大な空白地帯「北総台地」2912.6haに、計画人口34万人、計画戸数87,000戸のニュータウン建設を構想。さらに友納知事は、鉄道と道路を敷設し、ニュータウンと都心を直結させるという壮大な未来図を描いていました。これこそが1966(昭和41)年に千葉県が発表する「千葉ニュータウン基本構想」でした。この計画の核を成すのは、住宅団地建設はさることながら、何と言っても鉄道でした。34万人の人口を擁するとなれば、1日10万人の通勤需要が予測され、それに見合った相応の足、公共交通機関の建設成功が都市発展の鍵となります。そこで千葉県は1967(昭和42)年11月に「千葉ニュータウン鉄道基本計画調査報告書」をまとめ、県自らが千葉ニュータウンを東西に貫く県営鉄道建設計画を打ち出しました。一方、北総地域を自社の事業区域とする京成電鉄でも、既に「北部開発推進委員会」を発足させ北総西部地域の開発の検討を進めており、千葉県が着々と計画を発表する中、京成電鉄は新会社での鉄道事業立ち上げに舵を切りました。1971(昭和46)年11月4日の第1回発起人会では、京成電鉄、新京成電鉄、主要金融機関で新会社設立の意思を確認し、同月18日には「新会社を設立して千葉ニュータウンの鉄道事業を引き受ける」旨の提案を友納千葉県知事に対し行いました。鉄道・宅地の県による一括開発という当初方針を掲げていた千葉県も、県が設けた鉄道問題懇談会において、千葉ニュータウンの足をどちらが担うべき34大戦末期、英国、ロンドン高度経済成長期、日本、千葉1944–昭和19年1.北総線前史 千葉ニュータウン開発構想
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