北総鉄道50年史
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その日は遠足誘致のため、当社管理職社員らは、手分けして都内や県内の小学校を回り、セールス活動の最中でした。当時、運輸部次長の星野康弘氏も校長先生にアポイントをとり、学校の玄関先で待っていた時に大きな揺れが起きたのです。2011(平成23)年3月11日14時46分、三陸沖130㎞を震源とする東日本大震災でした。マグニチュードは観測史上最大の9.0。小学校周辺の石塀は軒並み倒壊し、震度5以上であることは明らかでした。「これはすぐに社に帰らなくてはいけない」と、氏は取る物も取り敢えず新鎌ヶ谷の本社へ車を走らせました。この地震を受け、本社では直ちに対策本部を立ち上げ、被害状況やケガ人の有無など状況確認を開始していました。当社が設置した地震計は、紙敷・新鎌ヶ谷では震度5強、小室の地震計は震度6弱を記録し、続々と被害情報も集まって来ました。「印西牧の原駅のドーム型屋根のガラスが破損し破片が落下」、「小室高架橋で液状化現象が発生」、「白井駅~小室駅間で軌道沈下が起きている」、「全線において電車線支持金具が変形」、「車両基地の検査ピット内で点検作業デッキが落下」。被害は広範囲に亘りましたが、地盤が頑丈な北総線沿線では、レールが波打ち脱線するような重大な被害がなかったのはせめてもの救いでした。しかし、自動券売機が倒れ、ガラスの破片が散乱した駅もあり、駅周辺で立ち往生している人達を駅構内に迎え入れることは出来ず、全駅を一時閉鎖したのでした。一方で、震災直後の緊急停止により、駅間の線路上に電車共々取り残された乗客の避難誘導を急がねばなりませんでした。小室駅と千葉ニュータウン中央駅間に緊急停止した電車には80人のお客様が乗車されており、本社からも応援部隊を編成し、千葉ニュータウン中央駅まで線路上を誘導いたしました。「足元にお気をつけください」「ゆっくりで大丈夫です」。避難の最中でも余震は続き、不安がるお客様を安心させながらの約3キロの道のりでした。この他にも社員が手分けし、他の区間で駅間停車した列車のお客様140名の避難誘導や、被災箇所の応急補修計画、運休時の代行バスの手配など、不眠不休で作業を続けるのでした。そして同日中に線路の被害状況を確認し終えて試運転を実施。翌日早朝、6時22分からの運転再開に漕ぎつけたのです。お客様に一人の負傷者もなく復旧活動ができたこと、そして施設等の被害が比較的軽微で、早期の運転再開が出来た事は、巨額の資金を投じた北総線の設備が強靭に建設されていたことが何よりの大きな要因でした。震災の10年前の2001(平成13)年1月、第8代社長だった若槻治彦氏は年頭挨拶で「債務の額が大きいのは、初期の建設にしっかりとお金をかけてきちんとした設備を作ってあるから。ルートや線形も含めて北総線のハードは非常に優れている。この立派なハードは将来必ずや活きてくる」と語りましたが、事実、東日本大震災でその真価が発揮されたのでした。こうした中、2012(平成24)年3月には国交省立ち合いの下、千葉県、都市機構、鉄道・運輸機構、京成電鉄の当社支援関係者により確認書が交わされ、以下の支援措置を実施していただきました。126・都市機構からの融資に関し、金利引き下げと償還期間の延長(20年から24年)・千葉県からの融資に関し、無利子猶予期間の再延長(4年)2011–平成23年2.北総鉄道施設にも被害を もたらした東日本大震災

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