北総鉄道50年史
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110その日、7300形の車両プレートを交換する車両区員の表情は、晴れ晴れとしつつも、どこか感慨深げでありました。特急運行開始から3年後の2004(平成16)年7月、創業以来の社名「北総開発鉄道」から「開発」の2文字を外し、「北総鉄道」の新プレートへと付け替えた瞬間のことです。25年前の鉄道開業時から、当社所属車両は車体側面に「北総開発鉄道」のプレートを付け、開業以来幾多の経営難の中走り続けてきたのでした。雨の日も、風の日も、共にあったプレートだからこそ、外す手には25年分の重みをずしりと感じます。「北総開発鉄道」という社名には、開業時の思いが込められていました。第9代社長・亀甲邦敏氏は振り返っています。「設立当初の構想は、単に千葉ニュータウンエリアの鉄道輸送を行うだけではなく、沿線の開発にも積極的に参画し、ニュータウンの発展に合わせて当社もまた発展してゆこう、というものだった」。しかしながら開発事業は、ニュータウン事業の遅れもありなかなか予定していた収益を上げられず、関係者による支援を仰ぐ年月が続いていました。そして1987(昭和62)年、支援を受ける条件として開発事業からの撤退を決めたのです。本来ならばこの時点で「北総開発鉄道」という社名は変更すべきであったのですが、看板などの交換に多額の経費を要することに鑑み、これまで社名変更には至りませんでした。そんな中、社名変更を実現する千載一遇のチャンスが訪れます。2004(平成16)年7月、国の特殊法人改革の一環として、都市公団が独立行政法人に移行、都市再生機構(以下、都市機構)となりました。移行に際し、同公団は鉄道部門からの撤退を決定し、小室駅~印旛日本医大駅(12.5㎞)の公団線区間は、京成電鉄が設立した「千葉ニュータウン鉄道株式会社」に譲渡されました。これまで当社と都市公団との間で結ばれていた様々な契約は、そのまま千葉ニュータウン鉄道に引き継がれ、同区間の鉄道営業についても、これまで通り当社が行うこととなります。公団線の名称が無くなることで、当社もこれまで「北総・公団線」と表記していた駅の表示類等について改修が発生し、「この機会を活かせば、北総単独での費用負担を避けつつ社名を変えられる」と当社は社名変更に踏み切ったのでした。新社名を決める会議では「北総急行電鉄」、「北総高速鉄道」など、様々な案が躍って議論百出する中、多くの支持を得たのが「北総鉄道」でした。支持の最も大きな理由は「開発の2文字だけを取れば、最もシンプルで、しかも変更経費が少なくて済む。よし、北総鉄道にしよう!」と言うものでした。誠に当社らしいといえば……、らしい決定プロセスです。前述の車両プレートも実は全て新製ではなく、一部の車両では「北総開発鉄道」プレートの上に「北総鉄道」のフィルムを貼ったもので、社名変更に伴うあらゆる変更も、シール等で出来るだけ簡素に済ませるなど、皆がコスト削減に知恵を絞りました。亀甲社長の言葉が、改称時の当社の想いを代弁しています。「過去の夢を捨てて、21世紀を鉄道業一筋で生き抜いてゆく決意を改めて内外に示した社名変更である」。改称を機に、登記上の本店所在地も東京都墨田区から千葉県鎌ケ谷市に変更しています。2004–平成16年3.「北総開発鉄道」が 「北総鉄道」になった日

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