していかないとね」と語っておられるが、まさにそれこそが当社の抱く思いでした。現代の先進医療機関(日本医科大学千葉北総病院)と、病気治癒の言い伝えを持つ松虫姫。古今の健康への願いが交差する街であることを静かにアピールし、ふと立ち寄りたくなる街を目指したのでした。そんな一方で、印旛日本医大駅開業時の駅の周辺は造成途中の原っぱで、夜になると電車の灯りに誘われて様々な虫が集合し、電車に乗り込んで都心まで旅をしていたと古参の社員が回顧しています。「空気を乗せ開業した北総線が今度は虫を乗せている」とばかりに新聞の格好のネタにされ、乗り入れ先の路線からも「車内の虫対策をして欲しい」との対応依頼が寄せられるなど、当社も、列車の折り返しなどで駅停車時間が長くなる印旛日本医大駅、印西牧の原駅の2駅のホームに集蛾灯の付いた虫回収装置を設置するなど対応に苦慮したものです。なおこの頃、印旛日本医大駅開業に合わせて駅員・乗務員の制服も一新しています。制服は、開業以来20年が経過していることから、社内に制服デザイン検討委員会を設置して検討し、「都市高速鉄道らしいスマートなイメージと、他社との区別の明確化や着やすいことを考慮」して決定したものでした。北総開発鉄道の社紋をデザインしたボタンや2種類のオリジナルのネクタイも清新な鉄道に映えるものでしたが、この裏には、厳しい会社の台所事情を反映し、購入価格を抑えるため、従来よりも廉価な生地を使用するなど、細かな経営努力が隠されていました。また新駅開業に伴う要員についても、乗降客の少ない駅を1人勤務体制に変更して充当し、新規採用の抑制を図りました。これら経費抑制策は、日本興業銀行出身の第8代・若槻治彦社長の下でも連綿と推し進められ、安全対策の外は聖域なく全ての予算が対象でした。若槻社長について、こんなエピソードが残っています。当時の本社は高架下のプレハブで、歩くと床がギシギシと鳴るような建物でした。社長室も机と椅子がぽつねんとあるのみ。そこに訪ねて来た日本興業銀行の後輩が、若槻社長に向け「社長、すごいところにいますね」と驚いたように言ったとのことでした。そんな隠れた苦心もあった印旛日本医大駅開業と時を同じくして、北総開発鉄道では開業以来使用してきた西白井車庫と車両区を、都市公団により整備された「印旛車両基地」に移転させました。従来の車庫は、1979(昭和54)年3月の開業に間に合わせるため、暫定的に県有地を借りて建設された手狭なもので、その後の延伸開業等による保有車両数増加への対応も難しくなっていました。新しい車両基地は、当社が管理する12編成96両も楽に収容出来る規模を持ち、これまで外注に頼っていた、電車の乗り心地などに大きく影響する車輪の凹凸の削正が出来る設備も備えており、移転により車両の保守・管理の効率化が図られることとなりました。10044印旛日本医大駅開業から2022年春まで着用した制服5「印旛車両基地」広大な敷地により車両収容能力152両を誇る6プレハブ建ての旧本社執務風景(平成9年)
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